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Reports
旅日記


Story of 20 November 1988

東ドイツと東西ベルリンの物語

それは、地図の上に、まだ東ドイツが西ドイツとともに厳然として存在していたころ …

というより、今から思えばベルリンの壁が崩壊するちょうど一年前の 11 月。

当時住んでいたハンブルグのアパートに、英国留学中だった友人 K くんが週末を利用して遊びにきたところからこの 「物語」 は始まる。K の今回の訪問の目的は、ハンブルグを起点にした東西ベルリンの一挙大征服とのことである。

位置関係を解説するとこうなる。ハンブルグから東ドイツの国境までは約 60km である。で、アウトバーンを走って行くと、そこに東西の国境を越えて東ドイツ領域に入るための悪名高き ? 検問所があるのだ。東ベルリンを目指すには、そこからまずは、東欧の中の西側世界の孤島ともいうべき、約 220km 先の西ベルリンを目指すのである。そして、西ベルリンで再度ビザの手続きをすると 「ベルリンの壁」 の検問所を越えて東ベルリンへ入ることができるのである。

で、そしてそれやこれやを全て一日ですませて、東側共産圏のベールの中の様子をじっくり見てこよう ! という大胆な計画が、日帰り東西ベルリン大征服作戦の骨子であった。

しかし、この時期の北ドイツは非常に天候が悪いのが特徴である。

出発前の夜も雪がちらほら舞うのが見える状況である。雪が積もったらベルリン行きは中止かなあと思いつつその日は寝ることにする …

嗚呼、天は我らの味方であった !

翌朝起きてみると、この時期のハンブルグとしては奇跡と言ってよい快晴 ! 昨晩ちらほら舞った雪も積もるほどではなかったようだ。ということで、予定通り朝 9 時にハンブルグを出発。280km 離れたベルリンへと向かうアウトバーンに乗り込むのであった。

さてアウトバーンに乗り東南方向に 40 分ほど走ると、東ドイツ国境検問所へと到着する。

東ドイツ入国にはもちろんビザが必要である。

東ドイツ入国のためのビザには何段階かある。例えば、ハングルグからクルマでアウトバーンを一直線に通り抜けて西ベルリンに入るだけなら、東ドイツ国境の検問所で 「通過ビザ」 というものを取得すれば良いのである。さらに、西ベルリンから東ベルリンを訪問するための 「東ベルリン訪問ビザ」 も東ベルリンの検問所で入手することが可能である。もちろんそれにはまず、西ベルリンまで行かなければならないが。

というわけで今回は、まず通過ビザで東ドイツを通り抜けて西ベルリンにはいり、更にそこで東ベルリン訪問ビザを入手して東ドイツの首都、東ベルリンを征服してしまおうという二段階ビザ取得作戦なのであった。

今ではもちろん何もなくなってしまったのだが、当時は東西ドイツの国境には検問が三回あった。ひとつめは西ドイツ側の出国チェックの検問だが、当然これは西ドイツの職員によるパスコンなので難なく通過。続いてあらわれるのは東ドイツ側の第一の検問所である。ここで通過ビザを申請することになる。

東ドイツ入国のための検問所の係員はもちろん東側共産圏の官憲であり、全員が全員ニコリともしない。まあパスポートを見るなり鋭い眼光とともににやりと笑ったらそれはそれで不気味だが …

また、東西ドイツの協定により税金をおさめて居住している外人を含む 「ドイツ市民」 は、通過ビザ取得手続きが大幅に簡略化される。それが適用されるとかなり楽で、ハンブルグ市民の自分はそれで OK なのだが、英国在住の友人には適用されない。そのため、ドイツ人だけのクルマより手間も時間もかかるのである。

第一検問所で待たされること 20 〜 30 分、ようやく次の検問所へ行けという指示がでた。なお預けたパスポートなどはこの時点では戻してもらえない。多少不安だが、これはベルトコンベアで第二検問所へ送られるらしい。

第二検問所に向けてクルマをそろそろと動かす。制限速度は時速 10km 厳守と書いてある。

いよいよ東西の国境を越えるという、緊張感が高まるひとときである。更に更に緊張感を高めることには、東ドイツ側の第一検問所から第二検問所までの 100m ほどの間、マシンガンを携えた兵士がずらりと 10m おきに両側を固めているのだ。

いきなり椎名誠風になるが、それら直立不動東側官憲十数名は全員凶眼サメ眼状態であり、少しでも怪しいことしたら許さんからねワシ、という殺気を全身からみなぎらせつつ通過するクルマを睨み付けているのである。

思わずいきなりアクセル全開で加速して第二検問所に突入 … というのは冗談だが、もしそうしてみたらどうなるだろう、と思ってしまう。直立不動東側官憲十数名がいきなり身を翻して一斉射撃体勢に入り、加速するクルマを追射し、蜂の巣状態にする … ということになるのだろうか。一回見てみたい気もするのだ。が、自分でそれをやるのは、どうもやめておいた方が良さそうな雰囲気だった。

ということを思いつつ、一斉射撃を受けることなく、無事、第二検問所へと到着。ここでもしばらく待たされたが、最後にはようやく東独ビザのスタンプを押したパスポートもらうことができた。

これでようやく国境を通過し、クルマは東独領域内に入るのである。

しかしほっとしたのもツカノマ、国境通過 10 分後、次なる問題が発生するのである。

な、なんと東独は雪であった。

東独のアウトバーンは雪。トラバントとともに走る

雪が降っているわけではない。が、昨晩、ハンブルグでちらほら舞っていた雪が東独領域では 10cm ほどつもっていたのである。少し走るとたちまちあたりは銀世界。アウトバーン路上も圧雪路になってしまった。

ちなみにクルマの足はふつうの夏タイヤである …

さて、さきほど取得した東独通過ビザのルールをおさらいしてみると、あらゆる西側クルマは東独域内に入ったあと、一直線に西ベルリンを目指さなくてはならないのである。アウトバーンからおりることは許されない。アウトバーン全ての出口にはそれを監視するための監視塔が立っているのだ。

というわけで、U ターンすることが物理的にできないのである。

次に東独内で万一事故を起こすとどういうことになるか、という点も重要であろう。その場合、取り調べをするのは当然東独共産主義官憲である。特に西側の人間が東独人を巻き込んだ事故を引き起こした場合は、事故処理が完全に終わるまでの拘束は当然という態度。相当な罰金賠償金を覚悟しなければならないというのがもっぱらのウワサであった。

というわけで圧雪路のアウトバーン路上、前後左右に東独のクルマが次々とあらわれるのを、近寄ってくるな〜 と思いつつも、220km さきの西ベルリンに向けて、絶対に事故だけは起こさないようにそろそろとクルマを走らすことになるのであった。誰が何と言おうが、他に手はないのだ。

この状態で 5 時間経過 …

よ、よ、ようやくベルリンに到着である。

検問所をまたいくつか通過して西ベルリンへと入ることが出来たのは午後 3 時。う〜む、すでに夕方に近い時間だ。というわけで、東西を分断するベルリンの壁を抜けて東側に突入し、東ベルリンを征服するという計画は、今回は、断腸の思いで断念せざるを得ないのであった。

まあしかし、と気を取り直し、西ベルリン側だけは見て回ることにする。

まず東西分裂の象徴でもある 「6 月 17 日通り」 へ行ってみる。

6 月 17 日通り。奥にブランデンブルグ門と壁が見える

そしてブランデンブルグ門を見たあと、間近に壁を見るならココ ! というブレナウア通りへ移動、ベルリンの壁の前にクルマをとめて記念撮影をするのであった。

「ベルリンの壁」 というのは、ある日とつぜん街の真ん中にどーんと作ったモノである。西ベルリンで東方面に向かっている道は、どれもこれもどーんと壁でツキアタリ状態になっている。通りの車道も、その脇の歩道もどーんと壁につきあたる。が、そのつきあたる直前まで車道は車道であり歩道は歩道であるという格好をしているのが面白い。実際、昔からの 「何とか通り」 という標識が壁直前で壁の方にむけて立っていたりする。

大通りが壁に突き当たっている。右には歩道が

更に、少し高いところに上ると、西側、東側の二枚の 「壁」 (その間は何もない緩衝地帯) をへだてて 「その先」 の道が壁の向こう、東ベルリン側にのびているのを見ることができる。が、これが何とも違和感がある風景である。というのは、その同じ通りの、壁のこちらの風景はまさに 「現代」 なのに、壁の向こうは、日本でいえば (感覚的には) 昭和 30 年の町並みなのだ。

これは一見に値するので是非オススメします、と言っても、もう遅いんですけどね。

と言いつつ、もう夕方である。帰りはまた 6 時間かかる計算である。わずかな滞在時間のあと、また同じ道を、のろのろと時速 40km でハンブルグに向けて引き返すのであった …

いつの日か、東ベルリンへのリベンジを誓いつつ …

というわけで激動のベルリン編は Report No.2 へと続くのであった。