トップページへ戻る Photographs Leica & Rollei from Europe from the World Who is the photographer?

Reports
旅日記


Story of 1 May 1990

ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ

というわけで Report No.3 は、ベルリンの壁崩壊のあと、まだ東ドイツがあった時代のお話である。

ベルリンの壁が崩壊した翌年の 5 月某日、ハンブルグのアパートにまたまた、英国在住の K くんがやってきた。何をしにきたか ? もちろん ! 雪にはばまれ征服を断念した東ベルリンへのリベンジ作戦なのであった。

この時期は、歴史的なタイミングでいうと、ベルリンの壁崩壊の半年後、そして、東西ドイツ統一のだいたい半年前ということになる。東西のドイツが統一されてしまうと 「東ベルリン」 もなくなってしまう。するともはや、永久に、東ベルリンにリベンジするチャンスは失われてしまうのである。

まあそのようなわけで、Audi 大征服号は、またまた東ドイツへ向けてハンブルグを出発した。ハンブルグからアウトバーンで約 40 分、東西の国境の検問所へ到着。検問は、いちおうまだ現役である。通過ビザを申請するためしばし時間を要する。そしてそこからさらに、約 220km 先の西ベルリンへ向かうのであった。

今回は積雪どころか初夏のぽかぽか陽気である。天気も快晴。お日柄もよく、絶好の東ベルリン征服びよりである。順調にクルマをベルリンに向かって走らせ、二時間半でベルリンに到着することができた。

さてここでいよいよ、西ベルリンから壁を越えて、東ベルリンに入ることになる。

壁を越えるため、まず、チェックポイント・チャーリーという検問所へと向かう。東ベルリンに入るためにはそのためのビザが必要なのだが、この検問所では、東ベルリン限定のツーリストビザを即時発行してくれるのだ。なお、チェックポイント・チャーリーをクルマで通るのは何かと時間がかかるというので、クルマをおいて徒歩で壁を越えることにする。

なおここは、東西ドイツがまだ冷戦状態だった時代に、クルマのトランクに隠れるなどの方法で西側に逃れようとした東ベルリン市民が多数逮捕され、その後、悲惨な運命をたどったというところでもあるのだった。

これが、チェックポイント・チャーリーである

検問所の中で何回か行列をつくり、書類を出して種々の手続きをし、いよいよ東ベルリンに入る許可を得ることができた。

ビザを片手に検問所を出て、東ベルリンの街並みの中にに入る。すると、そこには西ベルリン中心部の退廃したような喧噪とはうってかわって、静かで穏やかな街並みが広がっていた。しかし、クルマ好きにとっては、街中に見かけるクルマの 80% がトラバントという方が 「東側に来た ! 」 というインパクトが大きいのである …

ウンター・デン・リンデンにて。トラバントしかいない

チェックポイント・チャーリーから、ブランデンブルグ門へと向けての数キロの道のりを徒歩で移動。いつもは西側から直接ブランデンブルグ門へ来るところを、今回は南からぐるっと回って東側からアプローチしているというわけだ。壁がなければ、ブランデンブルグ門の下をくぐってベルリン東西を結ぶことになるはずの大通りは、西ベルリンでは 「6 月 17 日通り」 という、政治的なデモのあった日が通りの名前になっている。が、壁を隔てて門の東側は 「ウンター・デン・リンデン通り」 という。菩提樹の下の道という優雅な名前である。

分裂前の旧ベルリンの象徴ともいうべき大通りの名称としては、もちろんこちらの方がずっとユイショがあるのだ。

しばし 「菩提樹の下の道」 と 「東側から見るブランデンブルグ門」 の風景を堪能する …

その後、ブランデンブルグ門から、更に徒歩で北へ向かう。するとあたりはアパート街となる。全てが昔のままというか本当に時間が止まってしまっているような、不思議な感じがする一帯なのである。

余談ではあるが、このあたりに 「森鴎外が留学時代に住んでいたアパート」 というのがある。鴎外が住んでいた一室だけが、小さな記念館になっているのだ。このアパートは、しかし、その街に並ぶタテモノとしては、全く実に何の変哲もないという感じある。もちろん今でも現役のアパートである。

森鴎外と言えば明治中期を代表する文豪で、そのベルリン留学は百数十年前であろう。(ちなみに、この留学は 「舞姫」 という小説の題材になっている)

その、鴎外が百数十年まえに住んでいたというアパートが、このあたりで普通に現役で使われているアパート群の平凡なひとつなのである。ちなみにここは、東とはいえ、堂々たる 「ドイツの首都」 であるベルリンの中心部である。日本で言えば東京都心である。東京の都心部が、明治時代から現代まで、あたりまえのようにほとんど眺めが変わっていないというのを想像できるだろうか ? 実にありえないことではあるなあ、と思う。

さてブランデンブルグ門からさらに北へ移動して、フリードリッヒ通りの検問所へと到着。ここで国境を越えて、また西ベルリンへと戻るのである。

フリードリッヒ通りの検問所から西側に出て、ぐるっと回り込むように徒歩で南へ向かい、またブランデンブルグ門へと向かう。今度は門を西側から見るのである。さきほどいたところから数十メートルの距離なのに、ずいぶん大回りしなければならないモノだ … まあしかし、壁解放直前には、東ベルリン → チェコ → ハンガリー → オーストリア → 西ドイツと、東欧をぐる〜っと半周して、東ベルリンから西ベルリンへ逃げてきた人も多いので文句は言えないのだが …

さて、そういうわけでブランデンブルグ門に到着。そしてそこで我々が見たものは何か。

ベルリンの壁の解体現場なのであった。

このあたり壁の厚さは 2m 以上あり、またかなりしっかり作られたモノのようで一朝一夕に壊せるものではないようだ。が、かなり解体が進んでいる。

壊れかけた壁の前で感慨にふける …

これがベルリンの壁解体の作業現場だ

で、まあ、このあたりで今回の旅はおしまいなのである。

なお、この約二ヶ月後、1990 年 7 月 21 日に撤去作業は完了する。そして東西ドイツ間の移動は完全に自由になるのであった。

というわけで、激動の東西ベルリン物語は Report No.4 として、感動の最終回、「ドイツ統一の日」 へとなだれこむのである。